201812教会便り

救いの証

救いの証1
今年のジュニア・キャンプで、イエス様が十字架にかかって自分の罪のために死んで くださったことと、復活してくださったことを本当に信じました。
信じたきっかけは、集会の時に、ネクタイピンのたとえ話がありました。その話は、
先生が大切にしていたネクタイピンをなくし、それをさがし続けて見つける話でし た。
そしてルカの福音書19章10節に「人の子は、失われた人をさがして救うために来たの です。」という、みことばが書かれていて、そのみことばが心に残りました。
その時は、毎日聖書を読まなきゃいけないけど、たまに忘れてしまう時がありまし た。聖書を読まないということは、神様からはなれていると思いました。それで、失 われた人とは、自分のことだとわかりました。
その日の夜のデボーションの時、秋山先生とローマ10章10節「人は心に信じて義と認 められ、口で告白して救われるのです。」の、みことばを読みました。そして秋山先 生に「信じます」と口で告白して祈りました。
6月の特伝の時に、バプテスマを受けたいと言いました。なぜなら、イエス様につか えていきたいからです。
K.T.

救いの証2
私が初めて教会に行ったのは、今から20年ほど前で、当時はまだ小杉バプテスト教会でし た。お世話になっていた方の「教会に行ってみたらいいよ」というちょっとした言葉が キッカケでしたが、信仰心などというものを全く持っていなかった私にとっては、単なる
興味でしかありませんでした。とても心地よい雰囲気だった事をよく覚えていて、幼い2 人の子供を連れて何度か遊びに行きました。
それから数年経った時、私は信頼していた人との人間関係に悩んでいました。誰にも自分 の気持ちを全てわかってもらえるはずもなく、とても孤独で辛い気持ちでした。前に進も
うにも何が正しいのか答えも分からずいたそんな時、ある1人のクリスチャンの方から聖 書を学ぶ事を勧められ、家庭集会に参加することにしました。 その時の学びが、私と聖書の初めての出会いでしたが、その時に聞いた聖書のみ言葉は、 どれもどれも渇いた土に染み込む水のように私の心に染み込んでいきました。心が満たさ
れ、自分のことを100%知っていてくださる方がいたという安堵感に包まれました。
聖書の学びはとても有意義な時間となり、聖書こそが私たちの道しるべと、私は2002 年、バプテスマを受ける決心をしました。ところが準備会が進んでいたある日、その事を 知った親戚家族から大反対を受け、私は断念せざるを得ませんでした。 絶望感の中ではありましたが、きっと時が違ったのだと、私はいずれまたその時が来るこ とを祈りました。
そして、気がつけば今日までおよそ15年の年月が過ぎていました。その15年の月日は今 思えばたくさんの神様の恵みがあったのだと思いますが、私はすっかり自分の力しか頼ら なくなっており、自分が正しいと思うことをひたすら信じて歩む日々でした。これでいい のかと自問自答を繰り返しながらも、祈り方も忘れていました。
そして昨年の10月21日の特別集会のお知らせを頂き、久しぶりに参加しました。 教会員の皆さんがとても温かく迎えてくださり、「Mさん、お名前は存じていました
よ」と、初めてお会いした方から言っていただいた時、私が教会から離れていた15年の間 も、私のために皆さんが祈り続けて下さっていたことを知りました。本当にありがとうご ざいました。
そしてこの日、また主に従っていけたらという思いが起こされました。と同時に、15年の ブランクで私はそんな自分の信仰が本物なのか全く自信が持てずにいました。
今年の7月8日の特別集会のあと秋山佳代子先生とお話しをしている中で、自分の気持ちに
気付かされ、7月10日、秋山先生に罪について、そしてキリストの十字架の意味をお話し 頂き、自分が罪人であり、私の罪のためにイエス様が十字架にかかり死んでくださったこ と、そして三日目によみがえられたことを信じました。 「私は世の光です。私に従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つの
です。」ヨハネ8章12節 家族にも自分の気持ちを伝え、揺るぎない思いを理解してもらいました。 今は感謝と喜びでいっぱいです。これからは神様が正しいとされる事に従い、神様が喜ん でくださるような者となれるよう歩んでいきたいと思います。
H.M.

救いの証3
私は本日、イエス様の教えと模範に従って信仰していきますことを、この教会におい て表明いたします。
私は67歳である今日まで、人に認められたい、特に(すでにこの世にいませんが)両 親に認められたいという強い願望の思いで生きてきました。むしろそれが生き続ける 根源的な動機であったといっても過言ではありません。
そのため無理もしましたし、背伸びして失敗もしてきました。自分は自分はという自 己中心的な言動から、大切な友人や先輩、同僚のみならず、守らなければならない家 族さえも遠ざける、しかもそのことが自分が原因だということにも気づかず不遇を人 のせいにして失ってきました。そのことを恩ある人からたびたび忠告されていたので したが、心から受け止めていず、取り繕うという愚かさを犯していました。聖書を学 び始めたことから、その罪の深さに気づくこと、その罪を受け止め、その罪を悔い改 めることがなぜ必要なのかが聖書を通して、次第に分かってきました。
私の実家は現在八代目ですが、代々浄土真宗を信仰しており、神事も地域と共有して いて生活習慣はそれに基づいたものであるという、南砺市利賀の村伝統的な信仰環境 で育ってきました。
次男である私は家を出て独立した人生を歩んでまいりましたが、この信仰習慣は形骸 的にですが折に触れて「活用」するという程度のもので、儀礼的に向き合っていた私 でした。それでも日本人だからという認識で受け止めていました。全く心のない軽い ものでした。その程度の信仰認識ですので、日頃から信仰による自分の心の立て直し は無理じゃないかという思いでいました。
そんな私が、このバプテスト教会のクリスマス集会に初めて参加したのは、仕事を通 してお付き合いのあった北林さんからのお誘いでした。キリスト教に対する否定的な 気持ちは全くありませんでしたが、戸惑いはありました。信仰を科学的に見てしまう 心が無くもなく、及び腰で臨んでいたところも少しですがありましたが、知りたいと いう気持ちのほうが勝っていて、流れに任せたいという思いのほうが正しい感触かと 思います。
初めての教会の雰囲気は、思っていたよりも宗教性にありがちなの閉鎖的な感じとか 洗脳感もなくて、気遣いや優しさのある温かい「近所の人たち」みたいな方たちが、 一つの目的をもって生き生きと集っているような感じを受けました。その先入観との ギャップのほうが大きかったかな?という印象でした。
イエス様が十字架に架けられて、処刑までのプロセスを少しは知っていましたが、3 日後に復活されたという意味とその事実、そしてよみがえりの重要性を初めて知りま した。この時点では深く感じることはできませんでしたが、自分が歩んできた道を振 り返る機会は与えてくれたと思いました。
何度かの命拾いや、やることなすことことごとく失敗を重ね(時には小さな成功もあ りましたが)、自信を持てずに運の悪さを嘆きながらも、空意地張ってまた行き詰ま るという悪循環の繰り返しで来ており、ただ健康面は特に病むことなく何とか希望の 枠は残されている気がしていました。
ただ、私は困ったことに耳があまり良くないのです。数年前に総合病院で診察を受け ましたら、高音に対する反応が極めて弱いと言われ、それが先天性のものだという指 摘です。そのため、高音やこもった声色はとても聴き辛く、雑音の中での会話はとて も苦痛です。声は普通に届いているのですが、聞き分けが難しく、テレビや映画は字 幕を必要としています。そのために音質対応調整できる補聴器を買い求め使用してい ますが、それでも時として辛い場面はあります。難聴によって他社との面談には及び 腰になってしまいます。
こうした中、昨年秋、秋山先生から聖書をきちんと一緒に学びませんかとお誘いを受 け、 聖書購入後ルカ書からイエス様の誕生のところから学び、旧約聖書の創世記か ら北林さんと共に読み始めて、イエス様が真の神様、世界の創造主、そして自分の罪 からの救い主だと、聖書を読みながら、時々秋山先生に解説してもらいながら少しず つですが、知ることができました。
「信じることができますか?」と秋山先生から問われたときに、無私の境地で「信じ ます」と言ったものの、実は「まず信じてみよう」という入口レベルの気持ちでし た。バプテスマや教会に入ることなどがよくわかっていなかったことを話すと、ゆっ くり学びましょうと話されて、今年の1月から大体毎週一度のペースで聖書研究の時 間を作っていただき、バプテスマの学びを受け続けてきました。
聖書を学ぶうちにコンプレックス化していた「難聴」も、もしかしたらこれは神様が 与えて下さった試練であり、ご計画の一環かもしれないと考えるようになりました。 それにより、難聴が価値に変わるかもしれないと考え、それを信じて行こうと切り替 えてから、 今の仕事、介護福祉士として介護現場で働かせていただいていますが、 言葉も弱くなっている高齢者の方たちを、正面から受け入れることで意思疎通も良く なり、次第に楽しく満たされる気持ちになってきていることを実感しています。
5月の特別伝道集会で、来られた先生のメッセージでバプテスマの意思表示をするこ との必要を知り、招きの時に「信じます」と手を挙げました。
この時はすでに腹は決まっていましたが、それでも聖書には、まだ一体何が書かれて いるのか知りたくて、旧約聖書を毎日一章ずつ読んで、秋山先生から毎日その章の解 説を、とても分かりやすくしていただいています。
(ネットの)デイリーブレッドを並行して読むことも続けていくうちに、イエス様を信 じることの大切さが次第に心の中で刻まれていくようになりました。例えば、先の介 護職場において直面する様々な問題が、自分の心の解決の糸口になることを知るよう になっていきました。
先生から、信じますか?の問いかけをいただきました。「ローマ人への手紙」 10 章 10,11 節で、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
聖書はまたこう言っています。「この方に信頼する者は、誰も失望させられることは ない」とあります。
自分の罪を聖書から教えられ、イエス様の前に罪を悔い改め、イエスキリストの十字 架の死と復活は、自分の罪のためであることを知り、そして信じました。
証によって自分の罪の深さへの悔い改めが、永遠に光の当たるところに行けるという 復活、すなわち信仰生活のスタートがバプテスマであることで、ここに機会をご計画 され導いてくださった主へ感謝をするとともに、歌の森聖書バプテスト教会で主を礼 拝し、皆様と共に奉仕し、主に賛美の気持ちを忘れず加わりたいと思います。どうぞ よろしくお願いいたします。
E.N.

子どもクリスマス会

12月第1日曜日の午後14時より、子どもクリスマス会が行われた。快晴に恵まれて、 今年は20数名の子どもたちとその保護者が集い、共にイエス様のご降誕をお祝いする 楽しいひとときを過ごした。まず、皆で賛美歌『もろびとこぞりて』を歌い、祝福の 祈りをもって開始。
続いてのゲームは、チーム対抗玉入れ”&”そりリレー”。どちらも両者引き分けにな るほどの接戦で大盛り上がり。幅広い年齢の子どもたち、皆が参加し楽しむことがで きた。
心も体もリフレッシュされて、聖書のお話の時間。子どもたちは集中して、字のない 本を通して語られる福音を聞いた。“クリスマス”私たちを罪から救うためにお生ま れになったイエス・キリストが、十字架にかかり三日目によみがえられたことを信じ るならば、天国に入ることができる。このメッセージがお一人お一人の心にとどま り、実を結ぶようにと心から祈る。
毎年恒例プレゼントを受け取った後は、クリスマスケーキのデコレーション対決。グ ループごとに、個性あふれる素敵な作品が出来上がった。一番平均年齢の低い子ども たちのグループの努力が認められ、優勝に輝いた。すべての祝福を主に感謝しつつ、 また来年の祝福を待ち望みたい。
N.M.

12月のコーヒーアワー

毎月第三火曜に行われているコーヒーアワー、今回は、18日の午前中に行われまし た。朝から冷たい雨が降っていましたが、コーヒーアワーが終わるころには、晴れ間も見 られる日でした。
今回の聖書からのメッセージテーマは、“本当のクリスマス”。聖書の箇所は、ヨハネの 手紙1章9節~13節でした。
クリスマスは、イエス・キリストがこの地上にお生れになったことを喜び・感謝をもっ てお祝いする時です。
イエス様が地上に来られたわけは、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9) のためと聖書は教えます。光とは、物を照らす、物が見えるために必要です。
では、イエス様は何を照らすためにこられたのか。それは、人の罪。私達一人一人の心を 照らすために来られました。イエス様に照らされることによって、私たちは自分がいかに 神の前に罪深いかが見えてきます。しかし、その光に近づく人と、近寄ってこない人に分 かれます。聖書の時代の人々もそうでした。この光のもとに来た人は、当時神から与えら れた律法を守れない罪人や、取税人、遊女、などでした。一方、この光に近づいてこな かったのは、律法学者やパリサイ人でした。この人たちは、律法を教える人であり、施し や、祈り、断食など、一見、厳粛に守っているようでしたが、イエス様がおっしゃるに は、「偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように」(マタイ6:1)神 よりも、人の評価を求めている心をもっている人達でした。じつは、この心を救うために 来られたイエス様を、律法学者・パリサイ人は、拒絶したのでした。
そしてイエス様が照らしてくださる目的は、「神が御子を遣わされたのは、世をさばくた めではなく、御子によって救われるため」(ヨハネ3:17)です。
クリスマスを迎えるにあたり、まことの光をまだ知らない方々が、この光(イエス・キリ スト)に出会うことができますようにと祈る思いを新たにされました。
メッセージの後は、プレゼント交換をして、キャンドル作りを行いました。
キャンドルの周りに、ワイヤーを通したローリエの葉や、押し花、リボンや小物を飾っ て、思い思いのクリスマスキャンドルが完成しました。
集会の最後は、ティータイム。教会の姉妹が作ってくださったカナッペやお菓子を囲み、 キャンドルの光と共に、今日のメッセージを思い巡らしながら、楽しい交流のひとときの 恵みに感謝でした!
秋山佳代子